脳内お花畑
大学時代に言われたことば。
そうあるべきなのかな、とふと思った記憶がある。
他人からどう見えるか、というよりかは
そうあって欲しい。という役割やキャラクターを
ある程度認識した上で
その人の中の予定調和を壊さない程度に、
役割を演じることを当たり前のようにしてきた。
それは自身の考えがないとかキャラクターがないとか
そういうものとは、少し違う。
ある種のTPOに合わせた振るまいと似ている。
小さい頃、一人っ子だった私は
毎年、避暑とスキーのために訪れる軽井沢にある
老舗ホテルで、完璧なマナーを当たり前のように
自然に身に付けて、
小さなレディとして扱われたことが嬉しかったり、
毎週行く、銀座の時計のある特徴的な建物の
素敵なお店で見る大人の小物たちをいつか普通に
持つものだと思っていた。
母の実家では、毎年の年末年始はかなり忙しなく、
吉兆で数十万円するおせちを頼み、
初釜のお菓子は京都の和菓子屋さんで花びら餅を頼み、
お分けして、
お正月三が日には金屏風を玄関に置いて
お客様がご挨拶に来られるのを
お仕立てした新しいお着物で対応し、
頂いた部屋ひとつを埋め尽くすくらいのお歳暮の山を
業者の方に引き取って頂いて、
外商さんにお願いして各所にお礼を返して、
家で働いている方々へのお年玉や気遣いなどでバタバタしたという。
そんな、いろんな「普通」がサラリーマンであるうちにはないから気楽なのだと聞いていた。
他人の目があることを意識せずにひとりを楽しむ自由があった。
そして、良いものは親や周りの大人たちが自然と教えたり与えたりすることで覚えるものだから、さりげなく置いておいたりしたのだと、大人になってから教わった。
本もしかり、博物館や美術館通いの趣味も手芸も。
普通はどこの基準なのかはいまいち分からないまま、
守られて守られて甘やかされて育った。
大人とは人に合わせ、場に合わせて、様々なものや
気持ちやいろんなものを着替えるのだと思う。
それと同時に私は感受性が強すぎる。
と他人から言われ、
言葉が綿菓子みたいとも言われた。
地に足着けて生きていなくて。
守ってあげなきゃいけない空気とか。
それだけ頼りないということなのだろうと思う。
そんないろんなものを身に纏いながら生きている。
全てを取り払った素の私を見れるひとはたぶん
そんなにいない。
いつかそういうのを全部見せられる人が出来るのだろうか。
お花畑の住人は未だに外に出る道を知らないのかもしれない。
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