SaulLeiter +François Halard +Jacqus Henri Lartigue
今、関西では京都の国際写真祭をはじめ、写真展がたくさん開催されています。
そのうちの3つに行ってきました。
SaulLeiter +François Halard +Jacques Henri Lartigue
SaulLeiter
ニューヨーク繋がりでかなり気になっていた映画とセットで観たいと思っていた展示。
気になる映画の方はまだ観れていませんが、優しくも柔らかい光の中でニューヨークという街を撮った写真家の温かい心が伝わるような写真が数多く展示されていました。
GW中ということもあってか、館内は人も多く高齢者の割合が多いイメージ。地元の方に愛されるこじんまりとした市立美術館、といった規模とはうらはらに、見応えのある展示が多い同館。
今回も2階のフロア全体と地下一階のフロアを使った展示会場は、モノクロ、カラー、画家、ヌードと4種のテーマに別れていました。
ソウル・ライターの目を通して切り取られた世界は、とても温かく優しく感じました。
ニューヨークという洗練された、でもどこか都市的な闇を抱えた印象のある冷たさとは違い、血の通った日常がそこにはあって、人々の体温が伝わるような写真が数多くありました。
気の強そうな、まだ世界が半径5メートルの中で繰り広げられていそうな、少女。
傘をさし、通りすぎていく人の、道につけられた歩幅の小さな足跡とその上に降り積もっていく雪。
曇ったショーウィンドウの外側に立ち止まる、なにかを書き留める男性。
どれもはっきりとした顔が見えないところが、逆に都市に住む人の絶妙な距離感を感じます。
大勢のなかにいるのに、それぞれの生活に踏み込むことなく、かつお互いに拒否するでもない調和。
派手なはずの、黄色に赤、緑という色たちが並んでもなお、
優しくいい意味での影を残しているような写真。
それは切り取った本人が望んでいた「写真」のありかたが
一瞬ではなく世界であることに通じているのだろうと思います。
François Halard
フランソワ・アラールの撮った10点の作品が飾られたギャラリーの展示。
ソウル・ライターの部屋を撮っているのですが、先にソウル・ライターの写真を観ておいてよかったなぁ、と。
この2つはセットで見ると、舞台とその過程を見るようで深みが増すような気がします。
写真は切り取られた世界ではなく、世界がそこから広がる芸術なのだと感じさせてくれました。
~ちょっと寄り道~
フランソワ・アラールの展示があるギャラリーのすぐ近くに服部天神という神社がありました。
足のご利益があるということで、好きな野球選手が痛めたときにはここにお詣りしたこともあったなぁ。ということで、久しぶりにご挨拶。
晴天のもと、楠の大きな枝が気持ちのよい木陰を作ってくれていました。
神様に尋ねたいことがある時にはおみくじを引くといいよ。
と聞いたことがあるので、結果というよりかは「◯◯について聞きたいですー」とお祈りしてからひくようにしています。
なんだか言い当てられたようで、びっくり。
短気は損気。
あとは目標に向けて、頑張って、気持ちを穏やかに
生きていこうと改めて思いました。
さて、最後に舞台を移して京都。
Jacques Henri Lartigue
こちらはフランスの裕福な家庭に育ち、写真を無邪気に「趣味」として画家であると本人は言っていたという芸術家の、明るくて楽しい写真が数多く展示されています。
細見美術館らしい独特の展示場3フロアをぐるぐると回りながら降りていく展示はモノクロ、カラー、両方の写真が数多く展示され、皮肉にも最初の奥さんと最後の奥さんが対面するような展示になっているのも、また面白く。(展示を企画された佐藤さんも意図したわけではないとのこと)
人生の光の部分を残すこと。
それは最近で言えばInstagramにも現れるように、人の根元的な欲求と結び付くのかもしれません。
素敵なものは残したい、そして出来るなら人と共有したい。スライド上映などで
身近な人たちとその写真を見ながら談笑したという記録からも
なんとなくそんなことを考えたりしつつ。
その執拗なまでの記録魔な性格も、明るい部分だけを。といったところもどこかウィトゲンシュタインを思い出すようで、
個人的には彼自身の残したかった光に偏る部分はより闇を浮き彫りにしかねない危うさをも感じました。
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