替えがきかない

絶対に替えが利かないものなんて、この世の中にはない気がしている。
これがいい。と思う対象に対して、それが唯一であることと替えが利くこととは
共存する。
自分にとっての自分の体ですら、そのうちVRで認識のごまかしがきくようになってしまうとすれば
それは自分にとっての何か、がそれぞれ唯一である必要性がなくなっていくような、希薄なもののように
感じられる。
10年ほど前から自分の意識の実験をたまにしていて、
心理学でいうところの「会う機会が多ければ好感を持つ」は事実であるかどうか、
とか「恋愛での相手への認識は身体的接触を許せる以上の認識であれば変わらないのか」など
いろんなことを自分で試している。
結果、わりと心理学の通りにはならないもので。
体系立てられたデータに基づいての知識は、結果的には確率論なのだと思うようになった。
実際に気分や環境、状況、そこにおいての色々な要素については、すべてをデータとして認識することは
現在の自分のスペックでは難しいし、そこを外的な何かにデータとして渡すとしても「データ化すべきもの」の
範囲が広すぎて認識というものの、範囲がどれほどの「要素」=「データ」によるものなのかが分からない以上、
予測が不可能である。というのが、実際のところ。
現実とVRとの差は、ある程度コントロールが可能なところを「認識下」においてできるかできなか、だと思うけれど
認識自体の範疇から外れるところに決定的要因があったりすることもあるのだから、
結果、自分自身でのコントロールが100%出来るものではないというのが事実。
そうあるのであれば、結果の方からコントロールしていくべきなのかもしれないけれど、
そこに他人が絡んだりするのであれば、さらに問題は複雑化していくし、
要因をいくつ満たせば思うような結果になるか、というところのパターンが複数ルート発生することを思えば、
やはり実際にはコントロールが出来ない。もしくはコントロールするための要素が見えない、もしくはルートの策定が難しい。
ということに行きつくのだろうと思う。
となると、焦点をあてるべきはやはり「替えが利かない」とおもっているものに対して
「なんで替えが利かないと思うのか」と言うところだけれども
誰が相手でも同じ感情を呼び起こされるものではないということであれば、過去を変化させることが出来ない。と
同様に経験とか感情の蓄積について、同じ現象もしくは経験値を再現が難しいと現状で判断されるが故なのかと思う。
それならば、それは再現不可能と同様だけれども、替えが利かないことと同様ではないともみなせる。
それは経験や感情の蓄積によっての判断は、その「要素」を「どれだけの量」で判断しているか、ということだから
「別の要素」であれば量が同等でなくても、同じ現象が判断値として満たすということもあり得るからだ。
つまりは結果としての感情なり、事象が起きうるのであれば、それでいいと見なすのであれば、
それらにおける要因としての替えがきかないものなどない。
他人との友情、というと美談だけれどもそれらも環境の変化に付随して、変化していくものだし、
関係性は流動的だからこそ面白いというところもあるからこそ、やはり人は生きるという「替えが利かない」行為を
模索し続けるのかもしれない。

0コメント

  • 1000 / 1000