君との思い出は今も。


行くあてもなく車を走らせていた。行きたい場所はないのに、行きたくない場所だけは分かっている。そこを避けながら、ただ車を走らせる。

ふと携帯を見ると、見慣れた仲間からの着信があった。携帯電話が当たり前になったのはほんの数年前なのに、いつの間に生活に欠かせないほど重要になってしまったんだろう。そんなにも時が流れるのは早い。電話をかけ直す。
「もしもし?」
「あ、直義、ごめん」
「どうした、遼」
「悪いねんけど、終電がなくなったから迎えに来てくれへん?今、難波におるんやけど」

暇だった僕は夕飯を一回おごってもらうことを条件に雨の中、車を走らせることを承諾する。夕方の混み具合が嘘みたいに、新御堂筋は車もまばらだ。御堂筋をずっと南に下ると、心斎橋を通り抜けて左に曲がれば、あの通りがある。ウィンカーを出して左に曲がり、信号で止まる。視線を右にずらせば、すぐそこには思い出の場所がある。
(大阪の街は変わらへんな)
一年ほど前からわざと避けていた通りを、久しぶりに車から眺める。喧騒の中、地べたに座って自分の描いた絵を売る若い女の子や何かに答えを求めながら他人に答えを教えますと言っている年齢不詳の男、怪しげなアクセサリーやブランド物の模造品を売っている外国人も居る。気がつくとの人々の声の合間から、ギターと歌声が聞こえてきた。

ほんの少し開けていた窓を閉めて、音を締め出す。もしあのギターだったら、あの男だったら、あの歌だったら。そう思うと怖くて、これ以上この場に居たくなかった。
信号が青に変わる。アクセルを思いっきり踏み込んで、もう二度とここには来ないでおこうと改めて思う。ここには悲しい思い出が、多すぎる。


高校も卒業まであと半年という頃。僕は部活で全国大会に出場まであと一歩というところで、負けてしまった。全てが終わった気がしたのに、逆に悲劇的な要素が女子に受けたらしく、異様に人気が出てしまった。少し雑誌に載ったせいもあって、まるでアイドル扱いだった。
高校生くらいだと、一人が騒ぎ出すと皆が共鳴しあう。それが運良く広まってしまうと、こういう結果になるのだと身を持って知った。僕自身のことを知らない子もたくさん居るんだろうと思うと、すごく冷静に見ていた自分を感じた。そうすると自ずと斜に構えた態度になっていたに違いないのに、それすらかっこいいと良い印象に受け取られてしまっていた。そうなると対処のしようもない。開き直るしかなかった。戸惑いなどは当に通り越していた。


その日も教室で少し早い昼ごはんを食べていると、見慣れた長い黒髪が視界の端に入った。女らしさが外に出るタイプではない恵の、唯一女らしさを感じる部分。今では女子で一番といっていいほど仲のよい恵と話すようになったのも、あの黒髪がきっかけだったと思い出す。
校則がさして厳しいわけでもない僕の学校で、長く黒い髪の毛は珍しく、よく目立った。3年になるまで同じ学年に恵が居ることは知っていても、話したことはなかった。せいぜい黒髪の女の子。といった認識だった恵と話したのは、部活が終わって教室に戻ったある日のこと。彼女は教室で一人、日直日誌を書いていた。
夕陽の光が彼女を包み、その黒髪は綺麗に光を反射している。逆光でもその姿を見間違えることはなく、初めてその髪の毛を綺麗だと思った。
恵は突然、教室に戻ってきたかと思ったら、扉を開けたままの僕を怪訝そうな顔で見ている。何か言わなくてはと思って口を開いたら、間抜けな言葉しか出てこなかった。
「なんで恵は、髪の毛黒いままなん?」
「その方が似合うから」
恵は無愛想に答えた。気まずさの中、たしかにな、と言葉を返す。
(理由を聞いて似合うから、なんて答えが返ってくるとは思ってなかったわ。こいつ、意外と自信家なんやろうか)
返事を返した後、黙りこくったままの彼女の顔を見ると、頬がほんのりと赤く染まっていた。
恵は女子の間ではそうでもないのだが、男にはとても無愛想な女だと噂だった。プリントを渡すときのそっけない態度や話し口調が、どうも他の女子とは違ってサバサバし過ぎているのだ。しかしこうして見ると、もしかして照れているだけなんじゃないか?と思えてくる。そう考えれば辻褄が合った。
実際、恵の顔をよく見ると、日本的な顔立ちの彼女には黒髪の方が似合う。試しに思ったままを伝えようと口を開く。
「確かにお前の顔立ちは、どっちかって言うと和風やもんな。黒髪のままの方がえぇかもしれん」
「ありがとう」
嬉しそうに微笑み、こちらを見上げてお礼を告げる。彼女の笑顔に、噂ほど無愛想ではないものを感じ、それをきっかけに僕らは何でも気軽に話すようになった。
恵はその黒髪と日本的な顔立ちで男の間では静かな子だと思われていたが、実際はよく話したし、何より明るかった。そして、一本芯が通っているようなところがあり、不思議と女子の間でも一目置かれていた。そんな恵からの呼び出しは、唐突に切り出されることになる。
「なにぼーっとしてるんよ。それにこんな早いことご飯食べたら、お昼なくなって購買に走らなあかんくなるで」
「成長期やからなー。仕方ないねん」
「言ってることの意味が分からへんわ。あ、今日さ、昼休みに屋上来てよ。ちょっと相談したいことあんねん」
早口でまくしたてると、こっちの返事も聞かずに恵は教室を出て行った。
周りの男友達が話を聞いていたらしく、ニヤけてこちらをからかってくる。
「行ってやれば?ケジメつけたらんと、アイツ忘れられへんのんちゃう?」
気軽に言う男友達の言葉にどこか腹が立った。恵には今学期で転校するという噂があった。もしいずれ居なくなることが本当だとしたら、僕が今日屋上に行ったとしても、他の女の子たちからのけ者にされることもないだろう。
昼休みになると、冷やかす友人たちの居る教室を後に呼び出された屋上へと向かう。屋上のドアの前に恵は居た。暗い階段の踊り場に居たせいで、逆光のため彼女の顔は見えない。あの時と同じように光に包まれた黒髪は、艶やかに光を反射している。


「もう来ないかと思ってたよ」
恵の声が笑っている感じがした。少し安心して、二人で屋上へと出ようと扉を押すと、たてつけが悪いのか、古いのか、なかなか開かない。恵が真剣に押している姿を横で眺めていると、さっさと手伝えと怒った目でこちらをにらんでくる。
後ろから被さるようにして一緒に扉を押すと、簡単に音を立てて扉が開く。
「やっぱり直義は男の子なんだね」
「何や、それ」
扉が開いた瞬間、冷たい空気が一気に、建物の中に吹き込んでくる。まだ空気は肌寒く制服だけでは心もとなかった。
身震いした僕に、恵はこれでもしなよとマフラーを投げてよこす。見ると恵はコートまで着込んでいる。ありがたくマフラーを巻くと、女の子用のわりには若干長く渋めの色で大人っぽい。
「お前、こんな男っぽいのしてるから男から敬遠されるんやって」
冗談めかして言うと、すぐに手が飛んできて、頭をはたかれる。
「うっさいわね。それは………直義にあげようと思っただけやって」
小声で手作りのお菓子なんてたくさんもらってるやろうから、と続けた彼女が可愛らしかった。こうして改めて見ると、恵は確かに綺麗だった。夕焼けの教室以来、じっと見つめたことははなかったけれど、彼女が綺麗なことは事実だ。ただ、その綺麗さは消えてしまいそうで、儚いもののように思える。どこか危うさを秘めていた。
「まさかこんなとこ呼び出して、告白ごっこちゃうやろなぁ」
「ねぇ、3ヶ月付き合ってくれへん?転校すること、聞いてるやろ」
「3ヶ月って何やねん。今は俺、彼女とか欲しくないし」
「まぁ、えぇやん。残り少ない高校生活、こんな可愛い彼女と過ごせるなんてラッキーくらいに考えればいいんちゃうん?」
相変わらず恵の外見と中身のギャップが激しい発言にうろたえていると、笑っていた彼女の顔が真剣になる。思わずその表情に圧倒されて、僕は分かったと頷いてしまった。
その返事を聞いた途端に、恵の真剣だった顔が笑顔に戻った。
「じゃあまたメールするね」
僕は、そう言って屋上を出て行った恵を、成す術もなく見送ることしか出来なかった。

屋上を出た私は、階段の踊り場に座り込んでしまった。まだ、足が震えている。なんで告白なんて出来たんだろう。今でも不思議だ。
あと少ししか、時間がない。それならば彼と一緒に居るためにはどうすればいいだろう?そうやって考えに考えた結果の、3ヶ月間だけのお願い。
いつも部活で残って練習をしていた彼は、グラウンドで泥だらけになっていた。いつのまにか彼のことを見るのが習慣になり、そして好きになっていた。しかし、その気持ちに気がついた時には、既に病魔が私の体を蝕んでいた。余命は長くても1年と言われていた。それならば好きなことをさせてあげたい。と両親は学校へ行くことも、普通に生活することも許可してくれた。そうやって過ごすうち、偶然、彼に声をかけられて髪の毛を褒められて嬉しかった。
本当は自分の残り少ない命の中で、恋だけはしたくないと思っていた。心残りが出来れば、死が怖くなる。だから男の子とは意識して話さないようにしていた。彼に近づかないように。期待してしまわないように。まさか彼の方から声をかけられるとは思わなかった。
学校一の人気者。最近では雑誌なんかにも載ったことがあるらしい。そういうことには興味がなかったから、よくは知らない。雑誌に載ったことより、部活で活躍したことより、彼自身と話すと楽しいことが重要だった。
残された時間は、あと半年。どんな形でもいいから彼の記憶に残りたくなった。

降り続く雨が、さらに激しさを増してきた。ワイパーが動き、雨を右へ左へ流し続ける。こんな風に泣けたら少しは悲しみも癒えるだろうか。
そんなことを考えながらアクセルを踏み込む。目的地へと続く一本道を、煙草をふかしながら走る。一人車内で静かに音楽を聴きながら、思い出に浸るのも悪くない。
目的地が決まっていれば気持ちの切り替えも出来るだろう。あれからそろそろ一年が経とうとしていた。そういえば、あの日も雨だった。
今週の日曜日、ビックマン前で待ち合わせしよう。
恵からメールが入ったのは金曜日の夜遅くだった。あいにくと日曜日は用事が入っていたが、恵のことだ。あきらめないだろう。ため息をついて断りのメールを送信した。
そもそも付き合うことに承諾したのも、勢いにおされてなのだから無効もいいところだ。そんな文面を冷たいなと思いながら打った。
『一回だけでいいからデートしよう。』
どこまでもあきらめが悪い。苦笑しながらそれなら来週の土曜日にしようとメールを打つと、その日はどうしても外せない用事があるから別の日に、とメールが返ってきた。携帯を握り締めたまま眠りこけていた僕は、そのことにさして意味も考えず、翌朝に了解のメールを送った。
土曜日、普通に用事が済むと日曜日の予定が急遽キャンセルとなった。
(明日遊べるかもしれないって言ったら、恵が喜ぶかもしれない。メールよりも電話で教えてやるか)
そう思い、電話すると圏外のアナウンスが流れる。とりあえずメールを入れて、恵の返事待ちをすることにした。帰りに同じ方面だという仲間に車に乗せてもらい、帰宅の徒につく。ついでだからということで夕飯をごちそうになり、家族にメールをする。こっそりと問い合わせをしてみるけれども、恵からのメールは返って来ていなかった。
「やっぱり車は便利やな~。俺、免許取ったけど、まだ数えるほどしか運転してないからなー」
「お前が車運転するとか、怖くて見られへんし。俺は絶対に乗らへんからな」
そうやって好き勝手言ってる時が一番楽しかった。
ちょうど夕飯が終わった頃、恵からやけにテンションが高いメールが返って来た。10時に迎えに来て。だそうだ。
明日車を貸してもらえないか?と頼んだらあっさりええよと了解された。僕が頼みごとをするのが珍しいらしい。やけに喜んで彼女か?大切にしろよ。と兄貴ぶって言ってくる仲間の気持ちがありがたかった。
10時に迎えに行くから大体の住所と目印になる物を教えてというメールを返して、携帯を閉じる。喜んでくれるのなら、それもそれでいいかという気持ちになっていた。実際にデートなんて何をしたらいいのかよく分からない僕は、そのまま仲間と盛り上がって夜中過ぎまで話し込んでしまった。

目を開けると時間は9時を過ぎており、見慣れない部屋に一瞬戸惑った。僕はどうやら友人の家で、話し込んだまま寝てしまったらしい。
カーテンの隙間から差し込む光の強さから、今日はとてもいい天気なのだと気がついた。まだ寝ている友人を揺り起こし、車を借りることを伝える。安全運転で急いで家まで帰って風呂と着替えと支度をすると既に10時前だった。
少し遅れるとメールを入れると、分かった。とすぐにメールが返ってくる。向こうは既に用意して待っているようだった。
車で彼女の家の前まで来ると、ちょうど家の前に母親らしき人が立っていた。明るい栗色の髪の毛が肩のあたりで巻いてあり、恵とはまた違った印象がある。とても恵くらいの娘が居るようには見えない、若い母親だった。
「あ……おはようございます。恵さんのクラスメイトの」
言いかけた僕の方を振り向いて少し驚いたような顔をしたけれど、すぐさま言葉を続ける。
「お話は伺ってます、今日はわざわざお迎えに来ていただいてごめんなさいね。恵もすぐに出てくると思いますから」
その言葉が終わるか終わらないかくらいに、恵が小走りで玄関を出てこちらへと向かってくる。
「お母さん、いってきます!」
「あまり走ると危ないから、気をつけて」
にっこり微笑む恵の母親に会釈をして、そのまま僕らは車で和歌山まで足を伸ばすことにした。普通のデートじゃ、面白くないだろうと思いあえて遠出を選んでみる。車中では恵が先週、父親と母親と弟の3人の家族で一緒に出かけた時のちょっとしたハプニングの話や、僕が昨日飲んでいた仲間にこの車を借りたこと、その仲間たちの話なんかをしていた。和歌山というと大阪からは遠いイメージがあるが、気の会う人と話をしながら軽快に車を走らせて居ればすぐだ。遊園地もいいかなと思ったけれども、彼女と来るのならもっとシンプルに楽しめるところの方がいいと思った。
「一応、どこ行こうとか考えてくれてたんやね。そういうそつのない態度がもてるんやわ、きっと……」
「なんやねん、それ」
「まぁ、よく言えば優しいってことちゃうかな」
「悪く言えばどうなんよ」
「ずっこいんちゃう」
笑いながら海のほうへ行こうと指差す彼女の手をそっと握りしめる。軽快に歩いていた恵の足が止まる。顔を見上げてきているのが分かる。
「どっか、行かへんように」
視線をあわせるのも照れくさくて、繋いだ手と反対の方向を向いて少し引っ張りながら歩き出す。
「………」
恵も必然的に一緒に歩き出す。振り向いていきなり黙りこくってしまった恵の顔を覗き込む。
「返事は?」
「………」
よく見ると彼女の顔が赤みを帯びている。
「それほど照れることかよ」
「あほっ」
繋いでいない方の手で、背中を思いっきり叩かれる。
放って置いたら、さらに攻撃が来そうだった。そのまま歩き出すと空を切った手が行き場所を失い、バランスを崩して転びそうになる。抱きとめた彼女の体の軽さと細さ、そして柔らかさに少し驚く。抱きとめるために慌てて離してしまった手の行き場所に困った。
「お前、こけなや」
「こけへんわ、あんたが悪いねやろ」
「なんでやねん」
「こういうのって、なんか幸せ。直義、ありがとう」
笑い転げた後に、ふと悲しげな表情で微笑んだのが恵らしくなくて、何も言えなかった。夕陽に照らされた彼女の顔は、影を落としていつかの顔とは違う儚げな美しさが際立っていた。
日が暮れ始めたの同時に、雲行きも怪しくなってきた。あまり遅くなると恵のご両親も心配するだろうからと、車へと急かす。車に乗り込んだ恵は、お夕飯は食べて帰ると行ってきたと言う。それならば大阪まで出てしまった方が、下手にどこかに寄るよりも良いかもしれない。そう思って、デートらしく恵の要望を聞いてみる。
「恵、なんか食べたいもんある?」
「んー、美味しいもん食べたい!」
「お前さ…仮にもデートのつもりなんちゃうん?普通、パスタとか何か可愛らしいこと言うもんちゃうのん」
素で答えた恵に突っ込む。
「可愛いよりおもろい方が楽しいやん」
「男は女の子には可愛くあって欲しいもんやねん」
「そうなん?」
運転してるこっちを見つめてきてるのが分かってるだけに、隣を見れない。そう考えてみると、恵と二人きりというのも初めてかもしれない。照れくさくて、他愛のない話を続けていると、すぐに車は大阪府へと入る。
「梅田でえーやんな?」
「あー、心斎橋にお気に入りのラーメン屋さんがあんねん。どっちかって言うと難波やけど」
「車どこ止めるよ?」
「ビックカメラの地下駐車場でえぇんちゃうん?」
「あっこ、いっつも混んでるやないけ」
「じゃあその隣のビルんとこでえーかも」
高速を降りて、車を止めてラーメン屋に向かう。
「ここやったら、あそこちゃうん?」
「当たり、行ったことある?」
「もちろんやろ~」
二人でラーメンをすすっていると、なんだか本当に彼女みたいだなと思えてきた。なんだかんだ言って女の子には可愛く居て欲しいけれど、可愛さはいろいろな所に散りばめられているらしい。ラーメンを食べている様子さえ、可愛く見えた。
――――ブルルルッ
マナーモードにしていた携帯が鳴る。小窓には車を貸してくれた仲間の名前が表示されている。先に出ることを恵につげて、店の外で携帯を開く。
「もしもし」
「あ、ごめんな。デート中、ちょっとな親戚のねーちゃんが酔いつぶれてもうてんけど、車で送りたいねん。お前どこおる?」
「あ、なんばのいつも行くラーメン屋、分かるか?」
「裏のとこやろ」
「あぁ、そこでラーメン食うてるわ」
「そしたら店出たとこで待っといて、すぐ近くやし」
そこでブツッと電話が切れた。
「恵、悪いねんけど帰り電車でもえぇかな?」
「友達やろ、聞こえた」
そのまま二人で待っていると、すぐに遼がべろんべろんに酔っ払った女の人を連れてくる。小柄でスーツ姿なところを見ると、うわさの従姉妹だろうか。
「ごめんな~、えっと恵ちゃんやったっけ?デートの最中に」
現れた遼は、小さくて整った顔に低めの声。細いけれども色気のある表情が人目を引き、街行く人々が振り返っていた。
そんな遼に明るく通る声で、しかも笑顔で言われて恵が何か言えるはずもなかった。こういう遼の人懐っこいところは憎めなくて、羨ましい限りだった。
恵と遼の間に、そっと入る。遼の手に車の鍵を渡すと、にやりと笑われる。
「これ、鍵。あっこの駐車場入れてあるし……手伝わん方がええよな?」
「まぁ、そういうことで。恵ちゃん送っていったり。って車取り上げておいて言う言葉じゃないねんけどな」
そういうと遼は彼女に向かって水飲むか?大丈夫か?冷たいもんいらん?とかいがいしく声をかけている。
なんだかんだ言って、遼も大切な人には世話好きなのかもしれない。
「そうだ、心斎橋まであるかへん?今日やったら結構露店出てるかも」
手を引いて歩き始めた恵を守るようにして、人ごみの中を歩く。橋のところまで来ると、突然黙々と
「恵、待てって」
引っ張られる手を握りなおすと、恵が振り向いて不安そうな笑顔でこちらを見る。
「だってひっかけ橋怖いやん」
「お前な……彼氏と一緒の女引っ掛けるアホがどこにおんねん」
「だって彼女やって、言わへんのんちゃうの?直義にそう言われたら、攫われてしまうかも」
恵が真っ赤になって手を振りほどこうとするのを、握りなおして顔を覗き込む。
「自分で3ヶ月って言っといて、さらに1日でも良いからって言っといてそれはないやろ。今日の恵は俺の彼女です」
「はい」
一瞬の間のあと、嬉しそうに微笑む彼女の頭をポンポンと叩いて、先に立って歩き出す。後ろ手に繋いだ手はそのままで。もちろん、まだ赤い頬のまま、素直に後ろを付いて来る恵に声をかける男はいなかった。
心斎橋の商店街は、既に閉まっていくお店も多数あった。反面、休日なこともあって街は、まだまだこれからといった雰囲気が漂っている。行きかう人たちも楽しそうな表情で歩いている。男女の二人連れはもちろん、女の子同士で楽しげに話しているグループや男女入り混じってこれから飲み会といった感じの子たちも居る。
自分達はどんな風に見えているだろう?やはり彼氏と彼女、だろうか。引っかけ橋を通り過ぎ、女の子のすきそうな雑貨がディスプレイしてある店があった。
入りたそうな恵に声をかけると、いいの?と言って店内に入っていく。女の子の好きなものってこんなんなんやなぁと眺めていると、恵がコレかわいくない?とクロスのピアスを持って耳に当てている。
「お前、ピアスの穴なんて開けてたっけ?」
「開けてないけど、可愛いなって思ってん」
「アホか。それやったらこっちのイヤリングにしとけ」
「あ、それも可愛いかも」
再びアクセサリー選びに夢中になっていた恵を、女の子らしいところもあるんだなと眺める。黒髪にシルバーのクロスが良く映えそうだと思い、並べてあった中からシンプルなシルバーのデザインのものを選ぶ。さっき選んだクロスのイヤリングを前に、真剣に悩んでいる恵に話しかける。
「これはどうや?」
「あ、めっちゃ可愛いー。直義って実はこういうの選ぶの結構上手やねんな」
そう言うと髪の毛をふわりと下ろして、イヤリングを右耳に付ける。おろした瞬間にシャンプーのかすかな匂いがした。
「ん、自分で言うのもなんやけど、似合うかも」
「よぅ似合うとるわ、貸してみ」
もう片方の耳に付けてあげると、恵は嬉しそうにこれにすると言った。
「じゃあ、コレで決まりな」
恵の耳から外してレジまで持って行き、お会計を済ます。驚いて財布を出そうとしている恵に、包みを渡す。
「大事にせぇよ、俺からの初プレゼントやねんから」
「買ってもらってもええの?」
「アホか、お前、こういうのは男が買うもんやろ」
言ってから、自分自身で照れた。恵に背を向けて店を出ると、なかなか出てこない。心配になった頃、イヤリングを付け
髪の毛を下ろして出てきた。
「似合ってるわ、ほんまに」
「ありがと」
そっと手を繋いできた彼女の手を握り返す。ぎこちない雰囲気だったが、なんとも言えず嬉しかった。ゆっくりと歩いていると、手を引っぱられる感覚に横を見ると恵が立ち止まっていた。 彼女が足を止めた目の前には、何人も居るストリートミュージシャンのうちの一人が居る。ギター一本だけで、好きな歌を歌います。と書いていた。オリジナル曲作ります。と下のほうに小さく書いてあった。
「ね、直義。このイヤリングもらった記念でお願いしてもいい?」
「好きにしたら、えぇんちゃう」
「すいません、このイヤリング。彼氏にもらったんです、もしよかったらこういう感じの曲ってないですか?」
よかったら作りますよ、即興で。と言って、軽く歌いだした彼の声は思っていたよりも伸びやかで、柔らかかった。彼女のためだけに作られた歌は、どこかで聴いたことのあるメロディに似ていたけれども、そんなことは気にならなかった。
ただ、彼のギターと歌声だけが街の喧騒に溶け込んで響いていた。
初めてで、最後のデート。あの時繋いだ、恵の手の温もりを思い出す。
引っ張られた手のひらを握り返して歩いた道は、ほんの一本向こう側にあるのに、彼女はもうこの場所には居ない。いつも何気なく通っていた道さえ、思い出ひとつでこんなにも変わってしまう。あの場所を通るとどうしても恵を思い出してしまう。彼女はどんな思いで一緒にいたんだろうか?自分はどんな顔でどんな言葉を投げかけていただろう。不器用だから、だなんて言い訳にもならない。
ウィンカーを出して車を端に寄せた。ハンドルに頭を押し付けて、懸命に思い出そうとする。最後に会ったとき、自分はどんな顔をしていただろう。1年しか経ってないのに、記憶の中で少しぼやけてきているその顔は、いつも笑顔だった。思い出すたび声を殺して、涙をこぼした。今の自分の姿を見てもらうことさえ、出来ない。頑張って頑張っても、その先に恵は居ないのだ。
僕が彼女の訃報を知ったのは、仕事の最中に入った級友のメールでだった。たった一行、感情のないメール。
「恵、亡くなったらしい」
何が理由とも、何時だとも書かれていなかった。二人が付き合っていたことは気心の知れた数人の友人たちと遼だけだったから仕方がなかった。彼女が突然消えてしまった、あの日から僕が追い求めていたものは一体なんだったんだろう。
携帯が光る。アクセルを踏み、イヤホンマイクで電話に出る。待ち合わせ場所まではあと5分ほどだった。
「今日はほんとに、ありがとね」
「やけにしおらしいやん」
ドアの傍に立つと、ガラスに映ったイヤリングを嬉しそうに眺めている。少し顔色が悪く思えた恵をこれ以上引きずりまわすわけにもいかず、大通りでタクシーを停めて乗り込む。
恵の家の前まで行けば、うちまでは歩いて帰れる距離だ。
「タクシーなんて、電車でよかったのに」
「そんなん言うても、ちょっと顔色悪いで。歩きすぎたんかもしれん、ごめんな」
力なく笑うと、今日は暑かったから夏バテかな。と言って肩に頭をのせてくる。
「ちょっと肩、貸して」
「彼女やねんから、好きにしたら良いやん」
肩に乗せられた頭が重さを増してきた頃、タクシーが恵の家に着いた。恵を抱えて家のチャイムを押す。急いで出てきた母親に挨拶をして、遅くまで申し訳ありませんと謝ると恵を起こさないように家の中まで運ばせてもらう。
初めて入る彼女の部屋は思っていたよりも簡素で無駄なものは一切なく、どこか寂しい病室を思わせる雰囲気だった。
「じゃあ、僕は失礼します。遅くまで申し訳ありませんでした」
家を出て、自宅までの間に恵へメールを書く。今日は楽しかったこと、また遊びに行けたら良いと思っていること。
少し肌寒くなって、上着のボタンを閉めようとしてイヤリングが引っかかっていることに気がつく。また明日、学校で渡そう。そう思い、胸ポケットへしまった。
彼女は次の日から学校に来ないまま、転校が早まったとのことで顔も見ずに別れることになった。あれから何度もメールを送っているのに、返事は一向に返ってこなかった。
片方だけ手元に残ったイヤリングは、家のクローゼットに置かれたままだ。こんなに突然居なくなるなんて聞いていないと思い、恵の家まで行ったが呼び鈴を押しても返事はなかった。カーテンも車も変わらないのに、恵の気配だけがなかった。
このまま会えないことは薄々感じ取っていた。ただ、何もせずには居られなかっただけだった。
恵と連絡すら取れないまま、半年が過ぎた。半年もたてば薄情なもので、皆が普通の生活に戻っていた。僕だけがどこか抜け落ちたように開いた穴に違和感を感じているかのようだった。誰も彼女の存在を話題にしなくなっていく。それが当たり前のことだと思いたくはなかった。
きちんと恵のことを皆が語れるように、歌に乗せて伝えられればと思った。彼女への思いは、本人が居ないまま膨らんでいった。
やっと、その一歩を踏み出そうとしていた。仕事も忙しくなってきて、家に帰ると寝る生活が続いたある日、家に帰ると机の上に一通の手紙が置いてあった。薄いグリーンの封筒に力ない文字で書かれた宛名と名前。裏返すと恵の名前があった。
どんな考えがあったかは分からない。ただ、いきなり取り残された僕は彼女を忘れようと思っていた矢先だった。開ける勇気もないまま、数日たって、友人からメールが入った。予想通りだったとはいえ、永遠に失ってしまったことを信じたくはなかった。僕は涙すら流さず、ただひたすらに仕事に打ち込むようになった。この声がもしかすると彼女に届いているかもしれない。この姿はもしかすると彼女の目に触れるかもしれない。
気持ちが純粋に目の前の人々に向けられたものでないことを、少し後ろめたく思いつつもがむしゃらに頑張ることしかできなかった。彼女の母親が尋ねてきたのはそんなふうに仕事をしていた時期だった。
「お久しぶりです、恵の母です。突然お邪魔して申し訳ありません」
自宅に帰って目に飛び込んできた彼女の母親の姿は、一瞬誰だか分からないほどに憔悴しきっていた。恵の死を母親から直接聞きたくはない。その思いだけで話を聞くのをためらった。お話できる状態ではありませんので。と断りを入れると、恵の入院先だと言う病院の名を告げて帰っていった。僕が帰ってくるまで彼女と話していた母が、いろいろな事を話してくれた。
恵は死んではいなかったらしい。ただ、僕を僕だと分からない状態になっていただけだった。目覚めるときの分からない眠りは、死とは違ってわずかな希望があるだけに、余計に心に棘を刺す。他の友人に「もう帰ってこられない」と告げたことが、まわりまわって亡くなったという話にすりかわったこと。それを否定するだけの気力が両親にはもうなかったことなど、知らなかった沢山の知らないことがあった。母は最期に一言、一度お見舞いに行ってらっしゃいと言った。
それでも僕が恵の顔を見に行くことはなかった。
自分が頑張って彼女を迎えに行くのが先か、彼女が目覚めるのが先かは分からない。けれど自分の中でのけじめがついてない以上、会いに行くことはできない。連絡がないことを考えれば、今でもまだ彼女は眠り続けたままのはずだ。
今もふとした瞬間に、彼女はもうこの世にいないかもしれないと不安になる。それでも支えてくれる仲間が居る。孤独を感じてきた頃とは違うのだと思う。
道の向こう側に携帯で連絡をしてきた遼が見えた。大きく手を振って、周りのことなど気にせずに大声で叫んでいる。どうやら酔っ払っているらしい。いつかの逆だな。あの時は車をありがとう。そう言ってみようと思い、歩道へ寄せる。
雨はいつのまにか止んでいた。


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