柔らかい思考の塊と源泉

音楽を聴きながら遠回りでのんびり旅。
時間をあえて余裕をもたせて使うのが好き。
今朝はあえて遠回りをして、おでかけ。

好きな曲を聴きながら、これはいつから聴いてるだろうと考える。音楽の賞味期限が短くなったのはいつからなんだろう。
好きな曲をずっと聴き続けることは珍しいことなのか、それとも普通の事なのか。

分からないけれど、この前アーティストトークで聞いたことが
残っていて、思考の方向性を別に向けてくれるもののひとつして。
何かが正しい、それが全てというほど単純化できないパターンがたくさんあるものなんだと思うのだけれど。

そのトークで、前はこんなことを考えていて、今はこんなことを考えていて、と考えていることは違うことだけれども出力されてしまったものについて語ることは生み出されたその時点とは違ってしまっているから、というような話だったように記憶している。

そのアーティストさんは現代美術の方なので、音楽とはそもそも形態が違うということは理解した上で、話を進める。

音楽を生み出している人たちのサイクルが、創る時間の流れよりも早く消費されていっている(ように感じる)中で、裏側で使われている時間の流れと日々の時間の流れと音楽を意識する時間の流れとの速さの違いみたいなものを感じていて。

それはもう、本当に個人の感覚なのだけれど。

私個人は未だに学生時代のものをふいに誰かに褒められたりするのを見かけるだけですごく嬉しくなるのだけれども、
プロとしてそれを職業にしていないという意識の差みたいなものは感じている。

そんな自分の思考と同様に私が聴く音楽を創る人たちも
一人の個人としての考えがあるはずで、
商業的な戦略とは別でどうかんじているのだろう?
と思った朝でした。


舞台裏を手入れしなければ荒れていく。
準備しなければいけない場所なのにおろそかにしがち。
目の前にある道は意外と金色の素敵なものかもしれない。


立ち寄った神社の境内にたまたま芸能の神様が奉られていたので、あの人たちとあの人と私のことをお願いしてきた。

光の入り具合が絶妙で、なんかしあわせ。

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