祈り
ほんの小さな頃から、教会が近くにあった。
パパ先生、ママ先生と幼稚園では神父様とその妹さんを
そう呼ぶようなところで、
神様という概念はもちろん、いつも見守って居てくださる
存在として認識していた。
小学校ではお祈りが日常の中に組み込まれ、
ロザリオを片手に毎日祈り、毎週ミサで祈った。
クリスマスやイースターはイベントではあるものの、
とても大切な思いのこもったものでもあった。
高校の時に、ふと
「私のこの考えは
小さい頃から埋め込まれたキリスト教という概念と
切り離すことができなくなっていて、
実は本来考えることができるはずの部分さえ、
宗教によって当たり前という名で
書き換えができなくなっているだけなのでは?」
と、思考の限定を宗教の枠組みの中で生きることによって、
自然と身に付けているのではないかと考えた。
結果、大学は仏教系、バイト先は神道系といういびつな
生活を送った時期があった。
結果、自分の思考のレイヤーがどれ程の透過性を持つか
分からないままに生きてはいるのだけれども、
信仰と呼べるほどストイックでもなく、
けれども誰かに守られているような安心感をもたらしてもらい、
他人に無条件で優しくすることが人として当たり前であるかのような教育を受けてきたことは、
私の核の層のひとつであるように思えた。
今でもたまに、祈る。
それは叶えて欲しい願いに対して、
叶わないこともあることを知りつつも、
誰かに自分の思いを届ける行為として、
存在する。
誰かに感謝したいことを、
本人に伝えきれない感謝の思いを、
誰かにありがとうと
そして自身も還元していくことを宣言する行為として、
存在する。
世界が優しさでほんの少しずつ幸せになるのなら、
主食としてではなくてもいい、
誰かの一時の清涼剤として、
それらが届けばいいなと思っている。
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