村上隆に少しだけ好きな文脈を見つけた。
村上隆は好きじゃないけど、トップに立ち続ける現代美術作家の考え方が気にならないわけなかった。
今回のCasa BRUTUSはそういう意味では資料的なところと関川航平さん載っていないかなの二本立て。
今のところ、隙間にも後者は見つけられていないので、前者的なところでのおはなし。
彼が語る売れ続けること、の言葉の末尾に持ってこられた「描きたいものを、描いてるだけじゃ生き残れません」は
おそらく大人の思惑でセンテンスの最後になるように切り取られたのだろうと思ったりもするけれど、
そうであって欲しい。と思う人はきっと多いのだろう。
その後に彼が資料的なカットで取り上げられたジェフ・クーンズの『アートのお値段』(2018年制作、ナサニエル・カーン監督)に
ついての話に転換される。
マーケットの土台、日本以外での階級社会についての言及があり、日本でも北大路魯山人を例に出してパトロンが居て、
その人によって作られる「売立会」があったことやそれに類する応援団が自分にも居ることなどが語られている。
作品についてよりも先にマーケットのことが出てきていること、それは現代アートが高額で取引されることと名画と呼ばれるような絵画よりも
理解がしづらいものがそれだけ高額で取引されることへの理解をしたいとの思惑もあるのかもしれない。
トップアーティストなのに、今でも自分で営業。そんな彼でも8~9割失敗するという。
それでもたまに当てた時に「真実が透けて見える」という、追及されるその真実とはどんなものなのだろう。
「芸術は生生しくてなんぼであって、文脈を読むだけのお遊びじゃない」
これだけ芸術が軽視される政策の中で、彼が見つめている日本の中でのアートはどんなものなのか。
日本っていう国の枠自体は軽々と超えて、それを笑って見つめながらも、今までの軌跡を振り返りながら語る「自分が夢を描いた場所には
行けたけれど、だから何?」というところからのマーケットの中での自分。立ち位置は生み出すものと受け取るもの。両方の視点を滑らかに行き来しながらも
きっとこの人は美術を、自分の作品を愛しているのかなと受けとめる。
生きている今だからこそ、生み出す側だからこそできる「掃除」を自身の作品へのコントロールとして捉えている。
価格を操作するためではなくて作品の純度をきちんと保つ。その価値をきちんと自身の考えとして行動に反映している。
彼はそれを「僕独特の、アートとは何かの哲学」として語る。
そして自身のコレクションを文脈としては価値のあるものもたくさんあるけれど、見る人が見るとゴミと思われることも併せて。
新型コロナウイルスの渦中にあるからこその、これからの予測。
そして世界の別の場所で必要とされる「ドラえもん」の話。出来るなら彼に取り上げられるような「ストーリーを持つキャラクター」をもつ「ファンタジー」を
書きたいものだ。と思いながらも、ページをめくり、別の人の物語へと考えを馳せる。
この「文字の海に溺れながらも、空に記憶を辿り、心にいくつかの問題提起と喜びを記す」時間が読書の言い表しようのない価値であると、幸せに思う。
そして、また、彼の名前を探しながら読み進める。あるか分からないものを探す。という、もうひとつの楽しみ。
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