速記と踊りと文字
3月の始めに「漂白する私性 漂泊する詩性」という展示を
観に行った。
そこに手書きの文字がびっしりと書かれた紙を
貼ってある作品があった。
本来はパフォーマンスとセットなのだけれども
時間の都合上、展示を観るだけだったために
どこか未完成のままもやっとして、自分の中に残った。
速記のパフォーマンスが行われるという、奥の黒板も
同じく、だった。
今日、どこかそれがふにおちるような、そんな感覚を
覚えた文章と出会った。
『いろいろ詩集を読ましていただいた中で、直筆で書かれたものをそのまま印刷した作品がありますね、あれが印象的でした。私は詩のことはまったく分からないんですけど、そのとき正直に思ったことは、いかにも「詩らしいな」ということでした。』
『活字の姿に慣れてしまっているからというところもあるのかもしれないですけれど、それ以外にもなにかを表現しようとしているような力をすごく感じるんです。
その生で書かれている、つまり表現しようとしていることの力というか、パワーというか、そういうのを、それを見たときにすごく感じたんです。』
この感覚にとても似ていて、それでいてきっちりと中身の影は感じるのに、何かがすっぽりと抜け落ちているような。
生のパワーとか、リアルとかって、やっぱり存在感が違うのだなと。
勿体ないことをしたなと改めて感じた。
同じようにもしあの展示を見て、関川航平さんの作品に
生で触れたいと思う方がいらっしゃるのなら、
迷わず大阪の国立国際美術館での金曜日・土曜日に行われているパフォーマンスをお薦めしたい。
本当に、映像とはまったく違うところが感じられる。
どちらも絶妙な距離感ではあるのだけれども。
心の迷路を楽しめる。
ふわふわと落ちてくる鳥の柔らかな毛を、そっと包み込むように受け止めたときの感覚と少し似ている感覚。
そんな解説なんか吹き飛ばすくらいの、すごさがそこにはある。
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