現れては消えていく気持ちの流れ-関川航平 《あの(独奏)》を観て-
パフォーマンスを観ていて感じることのひとつに、気持ちが言葉や表現に追い付かず、現れては消えていくというものがある。
それは結果としてすべてを拾いきって記憶することが私には困難であるように、全部を覚えているわけではない。
ただし、すべてが渦のようになって、ひとつの流れを産み出すような時には、その流れ自体のことは意識して記憶することか可能だ。
この前、関川航平さんの《あの(独奏)》を見終わってから、女性に話しかけられた。ずっと見ているとしんどくなかったですか?と。
興味深かったので、彼女自身のパフォーマンスの捉え方を聞いていると、聞いていて連想をすることがないよう、あえて言葉同士の繋がりを切る連なりとし、それらを途切れることなく繋げていくことが天才的で素晴らしく、たまに途絶えそうになるときに、感情移入して辛くなるということだった。
そうか。辛いのか。
いつしか、俯瞰して見るようになっていた私にはとても新鮮に感じた。
初めは単語同士の連なりよりも単語に引きずられるように記憶が沸き上がってきては消えて、それらの面積が大好きだった恋人をまだ好きでいるという辛さを呼び起こすもので、自分でそれを上書きしなければ、思い出はそのままの鮮度であるかのような、身勝手な見方をしていた。
あまりに傷口に塩を塗りたくっていると、傷口は傷口ではなくなっていき、私の中の言葉の捉え方やそれに付随する記憶はパフォーマンスとのひも付けの方が強くなり、リハビリのようになっていくと同時に、言葉と記憶の関係性や言葉が説明しうる事象についての曖昧さや時との関連みたいなものに興味が移った。
あれほどまでに好きだった彼の、匂いを私は思い出すことが少なくなっていた。
当たり前になっていたのではなく、大切ではなくなっていた。
記憶とは曖昧なもので、沸き起こる感情ときちんと連動するとは限らず、ふとした瞬間のものがいつまでも記憶に残ることも少なくない。
今はもう居ない、大学の先生。
とても大好きだったけれど、頻繁に思い出しているわけでもないし、積極的にどうこうということもない、あの先生の記憶は辛く哀しいだけではない。
その先生は記憶することに長けていて、10年前の飲み会の会話を一言一句間違えることなく覚えていたりする、というハードディスクの容量が常人とはかけ離れているタイプの人間だったが、その分神経質で、周りに置くものや人にとても厳しい選別をしたうえで最低限のものだけを取り入れていた。
記憶は多面的で、事実も人の数だけあるのだろうけれども、そこから呼び起こされる感情は時と共に変化することもある。
そしてそれらの鍵となる言葉のひも付けも同様に。
シンギュラリティが迫っていると不安になる人があるけれども、人は種として孤立しているわけではなく、関係性が変わっていくときに、より多面的になっていくだけなのであれば、それらは今ある緩やかな変化とどう違うのだろうか。
言葉のひも付けの変化と技術の緩やかな変化とパフォーマンスの類似性みたいなものを感じた。
言葉に引きずられていた私の感情は、
私の見方を変えるだけで
パフォーマンス自体が変わったわけではないけれども、
受け止め方が変化した。
それは発信側についてあえて省いた上での、捉え方だった。
個体としてのアーティストにたいする興味は、省いて見る。
芸術に対して向き合うときに、ミラー効果のようなものを
もたらしかねない。というのが、私の中の、どこか自分自身を信用しきれない部分から来る、信念みたいなものであって。
等間隔で見ることができなくなる気がしていた。
俯瞰してみる。というのは大まかには第2段階。
手の動きや
言葉に対しての感情以外の部分。
間や強さ、イントネーション、声の高さからそれらを
はかり、いちど自身のフィルターを外したときの
パフォーマンス自体の面白さを味わうというもの。
その見方はとてもひねくれているのかもしれないけれど、
感情に引きずられ過ぎると自身が壊れそうな不安もあった。
そこから発展して、発信する側について考えはじめたのが
第3段階。
見る場所を変え、どう反応しているのかを見て、
それらによって変化があるのかを考え、
感情のトレースが多少なりとも可能であるかどうかを考えて
いた。
使う言葉の種類、客層からなる言葉の変化の有無。
数字で統計的にとることが出来れば一番いいのだろうけれど、
そう簡単には相関関係を導き出すことはできなく、
もちろんのことデータを拾いきれない私には完全なる客観せいのもと、統計的に。とはいかない。
結果として、今までの中で感じてきた感想として、
芸術に携わる人間ではない素人の受け止め方の模索は
まだ続いている。
今のところ観ていて感じてきたのは、
感情とパフォーマンスの類似性が私の中ではあるということ。
今まで観てきた中で生まれてきた、感情の揺れ幅。
ずっと個体として自身が受け止めてきた感情の、現れては消えていく波のような掴みきれないなにかが、残らないのに大切なことのように感じられる。
継続して行うことが苦手な私の、
継続して行うことが出来ている鑑賞は、
ひとつとして同じでないことを発信し続ける天才による、
パフォーマンスの素晴らしさを表していることだけは
間違いがない。
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